近世の氏神さん(その1)

2015年01月22日 17:17

由緒書きの「天正以降…」からは、確実にここにあった神社についての歴史です。

昭和8年に大阪府がまとめた「大阪府神社史資料」に記事が集められています。「天正以前は封境廣大を極めたりと傅ふれども今は甚廣ならず」(大阪府史)

ではなぜ、境内が小さくなり、神事が振るわなくなったのか?

一つは戦乱

天正年間は織田信長が日本の統一を進め、豊臣秀吉が取って代わり、天正の終わりには老いた秀吉の朝鮮出兵の暴挙があり…。そういうことをする連中はあんまり神仏を大事にしない。比叡山だって邪魔なら坊さんごと焼き滅ぼすという感性です。鉄砲や槍刀で守っている他人の土地を、上回る戦力・策略でぶんどっていく競争。そこに巻き込まれたら「神域」という人の心にしかよりどころのない土地など切り取り放題になるでしょう。歴史と伝統とともに、その時代の実力者の支持を得たところだけが生き残ることになります。

現在、福井の新屋坐天照御魂神社が立派なのも、中川清秀という地元(摂津国福井村)出身の武将が「白井河原の合戦」の際に戦勝を祈願し、この戦いでの武勲が茨木城主となる出世の契機になったからです。西河原・橋の内の先祖にこういう傑物が出ていたら、また状況は違ったかも知れません。(中川清秀さん、テレビの「軍師官兵衛」では「嫌なヤツ」扱いの脇役でしたが、あれは一つの説を採用しただけ。善人だったかどうかはともかく、傑出した人材であったことは間違いないでしょう。)

信長など神社嫌いで摂津国の神社を焼き払う。ただ、信長も牛頭天王(素戔嗚尊)は氏神だったので手をつけない。焼き払われないようにこの時期に牛頭さんを祭る神社が増えたとか(摂津名所図会による)。神社を守るために祭神まで変えたらしい(今、西河原の氏神さんにある須佐神社もそんな背景があったかも知れません…)。

火縄銃担いだ集団に「式内社の歴史は…」と話しても関心もってくれないですよね。神様はもちろん、当時の神職も氏子も大変な苦労をされたことと思います。

 

その2に続きます)

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