記事のアーカイブ
2015年01月04日 11:48
「うちの氏神さん>境内社・祭神」を更新いたしました。
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2015年01月04日 10:26
須佐神社
祭神 速素戔嗚尊(はやすさのおのみこと)
『古事記』の記述では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉の国から帰り、死の世界の汚れを除くために禊を行ったとき、鼻を濯いだ時に産まれたとされます。
『日本書紀』では伊弉諾尊と伊弉冉尊...
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2015年01月04日 10:21
「神功皇后攻新羅給事(しらぎをせめたまうこと)」
神功皇后は三韓出兵の際に諸神を招いたが、海底に住む阿度部の磯良だけは、やってこない。そこで神々が音楽をかなで、歌を歌うと磯良も感動のあまり神遊の庭にやってきた。体中に巻き貝やカキなどついていて醜いのでそれを恥じて現れなかったという。磯良は龍宮城に使いとして派遣され潮を操る霊力を持つ干珠・満珠を借り受けて皇后に献上し、これを武具として出征することになる。この時皇后の胎内には八幡大菩薩が宿っていた。諏訪・住吉大明神を副将軍として高麗国へ攻め寄せる。干珠を海に投じると水が引き、高麗軍が好機として舟から下りて戦おうとするところへ、満珠を投じると潮が十方
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2015年01月04日 10:02
拝殿の向こうにあるのは新屋坐天照御魂神社の本社だけではありません。境内社である東之神社のお社も覆い屋に守られています。しかも、本社より東之神社の方が大きいのです。お社が造られた1672(寛文12)年の時点では、東之神社は本社より人々の信仰を集めていたようです。さて、ここの祭神は…
八幡神(はちまんじん)
東之神社の中央、社の飾りは鳩。
八幡宮の祭神。応神天皇を主座とし、弓矢・武道の神として古来広く信仰されてきました。源氏(清和源氏)が八幡神社を一族の氏神としたため、鎌倉幕府を開いた源頼朝以来、武士の多くが八幡様に武勲を願ってきました。明治以前は「八幡大菩薩」として仏教の守護神でもあり、
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2015年01月04日 09:38
延喜式神名帳に「…三座」とあるので、この神社はその頃から天照御魂神ともう二柱の神を祀っていたことは確かです。では、延喜式のいう、もう二柱の神ってどなた? 明らかであるという歴史家もよくわからないという歴史家もいらっしゃいます。
現在、私たちがこのお社に祀っている(と、先祖から伝えられている)のは天児屋根命(あめのこやねのみこと)と建御名方命(たけみなかたのかみ) です。
天児屋根命(あめのこやねのみこと) ...
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2015年01月04日 09:20
天照御魂神(あまてるみたまのかみ)、別の呼び名は天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)、古事記、日本書紀では天火明命と記されています。覆屋内西側の本社中央に祀られています。御霊代は鐵鏡座…と聞きましたが、さすがにお社の扉を開くことは畏れ多くてできません。社に刻まれた飾りは獅子。
太陽の光や熱を神格化した神と考えられています。
文字として残された記録として古く確実なものは古事記と日本書紀です。これらの歴史書も文字が渡来する以前に語り伝えられことが基になっていますから「言い伝え」以上のものでもありません。しかし、文字に記された日本の歴史の始まる前からここに住まいする人々に知ら
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2014年12月19日 11:19
「氏子日記」を更新いたしました。:ポスター
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2014年12月19日 11:12
「初詣は氏神様にお参りしましょう」というポスターとチラシ(ポスターの縮小白黒版)をつくりました。(画像をクリックすると大きな画像が開きます)
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2014年12月18日 23:33
「御由緒」のページの「昭和62年にまとめられた由緒書き」をご覧ください。
Wikipediaなどで調べてもらえばいろいろ出てきます。Googleで検索したら最初に西福井の新屋坐天照御魂神社の「公式ホームページ」が出てきて、そこにもいろいろ書いてあります。
茨木市内に新屋坐天照御魂神社は三社あり、それぞれの歴史と伝承を持っています。西福井のホームページに載っているのは歴史資料に西福井の伝承を加味したもの。郷土史家の研究としてもいろいろな説があります。
さて、我々が、西河原の神社こそ延喜式に記載されたものであると考える理由は上記由緒書きの5・6行目です。
延喜式神名帳に書いてあるのは「新屋
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2014年12月18日 23:14
現在、新屋坐天照御魂神社は国道171号線の北にあります。しかし、国道の南にも小さな空き地があって椎の木が一本。ここも神社の境内です。そして調べてみると、国道の下になっているところも神社の境内であることがわかります。(あった…のではなく、現在も登記上、神社所有の「境内地」です。)
ここが道路になったのは昭和一桁の頃。当時を知る方に聞くと「弾丸道路」として作られたそうです。「弾丸道路」つまり、軍用道路です。基地に軍需物資を運ぶルートとしてこの道は作られました。戦後、昭和28年に二級国道171号京都神戸線となりましたが、前身はそういう道路。
昭和のはじめ、そんなに家が建て込んでるわけでもなし、神
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